もっとおもいだす

忘備録のために書いてみます

数学にまつわるエトセトラ

僕は人に思考を知ることが好きだ、それに付随して数学というものが好きだ。
それはただの数学ではなく、高校生の頃までのテストにおける数学の立ち位置が好きだ。
例えば、数学の課題が出たとしよう。学生たちはあらかじめ定められた答えに向かって、各々の頭を通して答えまでの道のりを思考していく。その時に、回答用紙には途中計算を書いて頭の中身を文字に写しこんでいく。
僕はその途中式に香る”思考の残り香”が大好きなのだ。

 

僕は学生時代、数学の課題を友達に見せてもらうことが多かった。
それは数学ができないからではなく、提出時間の直前までやらなかったからだ。
以上のように、直前になって友達に答えを写してもらえるようにお願いするような真面目な生徒ではなかった。

しかしながらそんな時、僕はよく回答の誤りを見つけることがあった。
それも頻繁に。
結果として、問題は解いてこないのに、誤りを見つけ、勝手に回答を正答に書き換える変な学生が出来上がった。
宿題はしてこないが、正答率だけは高かった結果、友達の採点役のような変な関係となったのであった。

今にして思うのは、このときに他人の思考を文章を通して知ることの面白さに気づいていていたのかもしれない。

 

子供の頃から好きだったのは、ネットサーフフィンであった。
当時はまだダイアルアップ接続をして、通信費もばかにならない時代であった。
ネットサーフィンにおいて、巡回するサイトは今でいう個人ブログであった。

そこにはたくさんの活字が転がっていた。
著者の趣味や嗜好、人となり、思考回路、過去のトラウマ、性癖などたくさんのことが文章から読み取ることができた。

想像することがおもしろかった。


二次創作は特に顕著であった。

登場人物に自分自身を投影して、自身の理想や世界を描く。

きっと僕は作品を通して、他人という生き物を知ろうとしていたのだと思う。
そしてそれは今も変わらない。

それゆえに、自分自身の書く文章からは自分自身のことを読み取ることができる人間味のある文章を書くことが好きでない。
自分自身を理解されることが怖いのだ。きっと。

そんなわけで、僕から情報が発信される際には、できるだけ人間味を排除される。
個人ブログがなかなか書くとこができなのはそれが原因ではないかと思っている。

 

そういう特性を持っている僕であるが、そろそろ他人に心を開いてもいいんではないかと思っている。
そんな時代がやってきたし、自分自身をさらけ出していくことは人生においてメリットしかないという事実に最近気づいたからだ。

添削は最後にすればいい、ただ頭の中の情報をすべて文字に起こし、自分の世界を文章上に表現していく事にする。否定する人もいるかもしれないが、今の僕の中ではそれは些細なことだ。

人に評価されるのではなく、まずは自分自身のことを僕が認めてあげたいと思う。
そう2018年は僕にとっての人間開花元年になるのだ。